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QUEENSRYCHE

クリス・デガーモ(G)、マイケル・ウィルトン(G)、エディ・ジャクソン(B)、スコット・ロッケンフィールド(Dr)によるTHE MOBというバンドにジェフ・テイト(Vo)が加入して結成。82年に自主制作したセルフタイトルのデビューEPが話題を呼び、「EMI」との契約を獲得。当初はジェフ・テイトのハイトーン・ヴォーカルを生かした正統的なHMを聴かせていたが、次第に歌詞世界の面や、楽曲の構成などにも知的なこだわりを見せるようになり、特に複雑なアレンジや変拍子などを用いているわけではないにもかかわらず、「プログレッシヴなバンド」と目されるようになる。88年に発表された「OPERATION:MINDCRIME」はストーリーの完成度、そしてそれを表現する楽曲の充実から、HR/HM史上最高のコンセプト・アルバムとされている。続く90年の、キャッチーさを一気に増した「EMPIRE」からは全米TOP10に入るヒット・シングル「Silent Lucidity」が生まれ、アルバム自体も400万枚を超える大ヒットとなった。94年の「PROMISED LAND」ではより哲学的で内省的な深みをたたえた音楽を聴かせ、HR/HM界きっての知性派というイメージを確立した。しかし、97年の「HERE IN THE NOW FRONTIER」以降、グランジ/オルタナティヴ・ロック色濃い音楽性に変化し、HR/HMファンからの支持を急速に失った。


RAINBOW

DEEP PURPLEに在籍していたリッチー・ブラックモア(G)が、74年、かつてDPの前座として起用したことがあったELFのメンバーと、ソロ・シングルを制作しようとしたのがきっかけで生まれたプロジェクト。ELFのシンガーだったロニー・ジェイムズ・ディオが想像以上に素晴らしかったため、シングルではなくアルバムを制作することにし、75年DEEP PURPLEを脱退。デビュー・アルバム「RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW(邦題:銀嶺の覇者)」を発表。ツアーを開始するにあたって、ロニー以外のメンバーを全員解雇し、コージー・パウエル(Dr)を含む実力派のメンバーに入れ替えた。76年、様式美の粋を集めた名盤「RISING(邦題:虹を翔る覇者)」を発表、日本、ドイツ、北欧で圧倒的な支持を得る。ライヴ盤「ON STAGE」(1977)を発表後、ベースとキーボードをチェンジ。78年には「Kill The King」や「Gates Of Babylon」のような様式美の真髄というべき名曲を収録しつつも、全体的にはキャッチーな色合いを強めた「LONG LIVE ROCK N' ROLL(邦題:バビロンの城門)」をリリース。しかし、方向性の問題でリッチーと対立したロニーが78年末に解雇され、後任としてオーストラリア出身で、かつてMARBLESというポップ・グループでヒットを飛ばしたこともあったグラハム・ボネットを迎える。グラハムのパワフルな声を活かしたダイナミックなHRと、イギリスでヒットしたシングル「Since You Been Gone」のようなポップな曲が同居した「DOWN TO EARTH」(1979)リリース後のツアー終了をもって、ロニーと同様、バンドのポップ化に反対するコージーが脱退、グラハムも主に人格に起因する様々な問題を抱えていたため、次のアルバムのレコーディング中に解雇される。グラハムの後任として迎えられたジョー・リン・ターナーは当時リッチーが志向していたハード・ポップ路線にピッタリの器用なシンガーで、発表された「DIFFICULT TO CURE(邦題:アイ・サレンダー)」は、様式美を愛する古参のファンには不評だったが、日本ではより幅広いファンを獲得することに成功、来日公演を日本武道館で行なうほどの人気バンドとなった。その後もメンバー・チェンジを繰り返しつつ、ハード・ポップ路線の優れたアルバムを発表し続けたが、DEEP PURPLE再結成プロジェクトが動き出し、アメリカでの成功を収められないことにフラストレーションを抱えていたリッチーがこれに乗ったため、RAINBOWは84年に解散した。そして、リッチーが再びDEEP PURPLEから脱退した95年、全く新しいメンバーと共に再びRAINBOW名義で活動、日本では高い評価を得たが、その後RAINBOWとしての活動は行なっていない。


RATT

ステファン・パーシー(Vo)を中心に1978年ごろサン・ディエゴで結成。当時のバンド名はMICKY RAT。1980年ごろ活動拠点をハリウッドに移す。数多くのメンバー・チェンジを経て、1982年ごろロビン・クロスビー(G)、ウォーレン・デ・マルティーニ(G)、ホアン・クルーシェ(B)、ボビー・ブロッツァー(Dr)というメンバーが揃い、バンド名をRATTに改名。83年に自主制作で発表したEP「RATT」がインディーズとしては異例のヒットを記録し、大手メジャー「Atlantic」との契約を獲得。1984年に発表したファースト・アルバム「Out Of The Cellar(邦題:情欲の炎)」は全米7位の大ヒットを記録、スマッシュ・ヒットシングル「Round And Round」はL.A.メタルのアンセムとなり、当時QUIET RIOTやMOTLEY CRUEのブレイクによって盛り上がっていた「L.A.メタル」ムーヴメントの代表格としての地位を確立。彼らのカラッとした明るく健康的なサウンド、セクシーなイメージは以前のメタル・バンドにはなかったもので、カットTシャツを着た(当時としては)オシャレなルックスもあり、「メタル」のイメージを変え、ムーヴメントに女の子を巻き込む原動力となった。続く85年の2nd「Invasion Of Your Privacy」も同じく全米7位に上る大ヒット、BON JOVIをサポート・アクトに起用した(!)全米ツアーも大成功。来日公演も1ヶ月に渡る長期ツアーとなる。86年の3rd「DANCING UNDERCOVER」では初の武道館公演も実現。ここで、ファンの間では伝説として知られるステファン・パーシーの「ステージ袖から走り出してきた途端飛び込み斜め前転マイク壊し」事件が発生する。この事件を日本の某有名メタル評論家がトミー・リー(MOTLEY CRUE)にしゃべってしまい、たちまちL.A.中の笑い者となったステファンはその後そのメタル評論家をシカトしているとかいないとか。ここまで順調に成功を収めてきたRATTではあったが、ステファンのセクシーではあるが狭い声域によって制限された類型的な楽曲は、「RATT N' ROLL」と呼ばれ、彼らのスタイルとして定着していたものの、マンネリを指摘され始めていた。そのため88年の「Reach For The Sky」、マネージメントを移籍し、BON JOVIやAEROSMITHで有名になった作曲家、デズモンド・チャイルドを迎えて制作した90年の「DETONATOR」のセールスは不振に終わり、91年、ベストアルバム発表後のツアーもキャンセルが相次ぎ、ロビン・クロスビー、そしてステファン・パーシーと中心人物が立て続けに脱退、バンドは解散する。RATTはルックス的にも、音楽的にも、そして人脈的にもL.A.メタル・ムーヴメントの中心にいたバンドであったが、それゆえにこそムーヴメントの失速とともにバンド自体も失速してしまったバンドだった。



RIOT

NY出身でありながら、欧州的な叙情性を持つHR/HMによってここ日本で高い人気を誇ったRIOTは、リッチー・ブラックモアに強い影響を受けたギタリストのマーク・リアリを中心に76年に結成された。翌77年、アルバム「ROCK CITY」でデビュー、同アルバムに収録されていた名曲、「Warrior」が日本独自にヒットする(余談だが、この曲を当時五十嵐夕紀というアイドル歌手が「バイ・バイ・ボーイ」という曲名でカヴァーし、シングル・リリースしていた)。続くセカンド・アルバムは、前作の日本での好評を意識したのか、当時国際的に知られた社会問題であった「成田空港闘争」にちなんで「NARITA」と名付けられた。80年には第1回「モンスターズ・オブ・ロック」(HR/HMのフェスティバル)ステージに立つなど、メンバー・チェンジを繰り返しつつ、活動を続けていたが、欧米での過小評価は続き、84年には活動停止してしまう。しかし、88年、マーク以外のメンバーを完全に一新、強力なハイトーン・ヴォーカリストのトニー・ムーアと、テクニカル・ドラマーのボビー・ジャーゾンベクを迎えたラインナップで「CBS」のディールを獲得し、パワー・メタル色を強めた名盤「THUNDERSTEEL」を発表、活動を再開する。以後、HR/HMの人気低下もあり、相変わらずアメリカで評価されることはなかったが、90年代中期、コンセプト・アルバム形式の力作を発表して以降ヨーロッパでの支持も徐々に高まり、安定した活動を続けている。


ROYAL HUNT

ロシア出身のアンドレ・アンダーセン(Key)を中心に結成された、デンマークを拠点に活動するHR/HMバンド。93年のデビュー・アルバム「LAND OF BROKEN HEARTS」が輸入盤で紹介されると、当時絶滅の危機に瀕していた、いわゆる美旋律を特徴とする「北欧メタル」のイメージそのものであった音楽性によって、たちまちマニアの話題を集める。日本盤がリリースされると、さらに広汎な支持を集めるようになるが、来日公演を目前に突如Voのヘンリック・ブロックマンが脱退。アメリカ人シンガーのD.C.クーパーを迎え、これが歌唱力の面でもパフォーマンスの面でも一気にバンドをランクアップさせる結果となった。当初は日本のみの人気だったが、名盤といわれる4作目のコンセプト・アルバム「PARADOX」をリリースしたあたりから地元欧州での認知も高まってくる。しかし、アンドレとの仲違いによってD.C.クーパーが解雇され、後任にARTENTIONの実力派シンガー、ジョン・ウエストを迎えると、欧州では実力派のプログレ・メタル・バンドとして確実に地歩を固めたが、バンドのイメージが地味になり、さらに楽曲が難解な方向に向かっていたこともあって、日本での注目度は低下してしまった。


SCORPIONS

ドイツを代表するHR/HMバンド。65年頃ハノーファーで結成され、72年に「LONESOM E CROW」でアルバム・デビュー。このアルバムには、中心人物のひとりであるリズム・ギタリスト、ルドルフ・シェンカーの弟で、後にギター・ヒーローとして有名になるマイケル・シェンカーが参加していた。マイケルがイギリスのUFOに加入するため脱退すると、泣きのギターの名手であるウルリッヒ・ロートが加入、看板声のクラウス・マイネ(Vo)と共に英米のバンドとは異なる翳りと哀愁をたたえたハード・ロック・サウンドを聴かせ、地元欧州はもちろん、日本で人気を集める。「荒城の月」も取り上げている、来日公演を録音した名盤ライヴ・アルバム「TOKYO TAPES」の存在が彼らの日本での人気を端的に表している。78年、ウルリッヒ・ロートが脱退し、マティアス・ヤプスが加入して以降、良くも悪くも洗練されたHR/HMを聴かせるようになり、82年に発表した8枚目のアルバム「BLACKOUT」でついに全米TOP10に入る大成功を獲得、世界的なビッグ・ネームの地位を手に入れる。その後も「LOVE AT FIRST STING(邦題:禁断の刺青)」(1984)、ライヴ・アルバム「WORLD WIDE LIVE」(1985)等、順調にヒットを重ねた。90年には東西冷戦の終結をテーマにしたバラード「Wind Of Change」が世界中で大ヒット、HR/HMバンドの枠を遥かに超え、「音楽親善大使」とでも呼ぶべき巨大な存在に上りつめている。


SEPULTURA

バンド名はポルトガル語で「墓」の意。83年、中心人物であるマックス(Vo/G)と、その弟イゴール(Dr)のカヴァレラ兄弟が生まれ育った、ブラジルのベロオリゾンテで結成されている。当初から悪魔的で過激な音楽を志向していたが、87年、アンドレアス・キッサー(G)を迎えて以降、デス・メタル的とすら言えるアグレッションを備えた、彼ら独自のスラッシュ・メタル・スタイルを確立。89年のサード・アルバム「BENEATH THE REMAINS」がヨーロッパのアンダーグラウンド・シーンで大評判となり、続く91年の「ARISE」で名実共にスラッシュ・メタル・シーンのトップ・バンドへと上りつめた。しかし、彼らはその地位に安住することなく音楽的な冒険を続け、93年の「CHAOS A.D.」を経て96年に発表された大傑作「ROOTS」では、そのタイトルの通り、彼らの祖国ブラジルの伝統音楽が持つ強靭なリズムを取り入れ、スピリチュアルとさえいえる生命感に満ちたヘヴィ・ミュージックを構築して絶賛を浴びた。しかし、マネージメントをめぐるバンド内の不和によってマックス・カヴァレラが脱退し、自身のバンドSOULFLYを結成。残されたメンバーはNYのパンク/ハードコアシーンで活躍してきた黒人シンガー、デリック・グリーンを新たなフロントマンに迎え、より研ぎ澄まされたヘヴィ・ミュージックを追求している。


SKID ROW

デイヴ・スネイク・セイボ(G)とレイチェル・ボラン(B)を中心に1986年に結成。同郷のBON JOVIの助けを得て、「Atlantic」と契約。元MADAM Xのセバスチャン・バック(Vo)をフロントに迎え、1989年に代表曲「Youth Gone Wild」を収録したアルバム「SKID ROW」でデビュー。ワイルドでありながらキャッチーな音楽性と、スター性溢れるセバスチャンのパフォーマンスによって一躍スターダムにのし上がる。セカンド・アルバムの「SLAVE TO THE GRIND」は全米チャート初登場1位を記録し、来日公演を日本武道館で行なうほどの人気バンドとなった。その後、HR/HMの人気低下に伴うセールスの不振も引き金となったのか、メンバー間の不和が表面化し、セバスチャン・バックが脱退、バンドは活動を停止する。


SLAYER

トム・アラヤ(Vo/B)、ケリー・キング(G)、ジェフ・ハンネマン(G)、デイヴ・ロンバード(Dr)の4人で82年に結成。JUDAS PRIESTからVENOMに至るヘヴィ・メタルと、DISCHARGEをはじめとするハードコア・パンクの双方をルーツに、「より速く、過激なメタル」をテーマに作り出されたサウンドは、先にデビューしたMETALLICAによって話題となっていた「スラッシュ・メタル」というジャンルを確立せしめるもので、アンダー・グラウンドで大きなセンセーションを巻き起こした。折からのHR/HMブームの後押しを受け、86年、リック・ルービン率いる「Def Jam」レーベルからまさかのメジャー・デビュー。メジャー1作目の「REIGN IN BLOOD」はスラッシュ・メタルのバイブル的な評価を受ける。その後も、若干ヘヴィネス重視でスローな作風を取り入れたりしつつも、90年代以降主流となったモダンなヘヴィ・サウンドには目もくれず、ひたすら王道のスラッシュ・メタルを追求し、それでいて古くならずに過激であり続ける彼らは、「帝王」と呼ばれるリスペクトの対象となっている。


STRATOVARIUS

82年ごろ結成。結成当時はシンプルなハード・ロックをプレイしていたそうだが、86年にティモ・トルキ(Vo/G)が加入、たちまちバンドの主導権を握り、様式美色を強める。89年、フィンランドの「CBS」からデビュー・アルバム「FLIGHT NIGHT」を発表するも全く売れず、たちまち契約を失う。3年後、インディーズの「SHARK」と契約してセカンド・アルバム「TWILIGHT TIME」を発表、その「HELLOWEENの楽曲にイングヴェイのソロを入れたような」と形容された音楽性で、日本で人気を得る。95年、専任ヴォーカリストとしてティモ・コティペルトが加入、バンドの弱点だったヴォーカル面を強化し、さらに評価を高める。翌年、唯一のオリジナル・メンバーだったトゥオモ・ラッシーラ(Dr)を解雇し、既に敏腕プレイヤーとして有名だった、ドイツ人ドラマーのヨルグ・マイケルと、スウェーデン人キーボーディストのイェンス・ヨハンソン(Key)を迎えるという大胆なメンバー・チェンジによってバンドの演奏力を一気に強化、「EPISODE」を発表。続く97年の名盤「VISIONS」はヨーロッパで圧倒的な支持を集め、メロディック・パワー・メタルの代表格としての地位を獲得する。しかし、日本においては、BURRN!誌上のレビューにおいて批判的とも取れる意見が大勢を占め、そのことに激怒したティモ・トルキが抗議のFAXを編集部に送りつけ、問題となった。98年の「DESTINY」は本国フィンランドのチャートで初登場1位を記録、国民的バンドとしての地位を確立。90年代末期からのフィンランドにおけるHR/HMシーンの活況の原動力が彼らの成功にあることは間違いなく、SONATA ARCTICAやCHILDREN OF BODOM等後続に強い影響を与えている。その後も、メンバーのソロ活動をはさみつつ順調に活動を続けている。


STRYPER

ロバート・スウィート(Dr)、マイケル・スウィート(Vo)の兄弟を中心に結成されたクリスチャン・メタル・バンド。84年デビュー。黄色と黒のストライプによるハチのようなステージ衣装に身を包み、ステージ上から聖書を投げるパフォーマンスで有名になった。歌詞の内容は当然聖書の教えに基づくもの。マイケル・スウィートの甘い歌声を生かしたメロディアスな音楽性で、全盛期には全米TOP40に入るほどの人気を博し、日本武道館での来日公演を実現させたこともあるが、90年代に入り解散。

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