MANOWAR 「偽りのメタルに死を」という物騒なキャッチ・フレーズ(?)を掲げ、メタルのために生き、メタルのために死ぬ、というアティテュード、そして正統派メタルの真髄というべきパワフルかつドラマティックなサウンドによって、「真のメタル・バンド」と讃えられているアメリカのバンド。ジョーイ・ディマイオ(B)とエリック・アダムス(Vo)を中心に81年に結成、82年にデビュー。当初イギリスのインディ・レーベルからのリリースで「BATTLE HYMNS」「INTO GLORY RIDE」「HAIL TO ENGLAND」といったアルバムをリリース。84年、「Virgin」傘下のレーベルから最高傑作とも言われる「SIGN OF THE HAMMER」をリリースするも、この1枚で契約を切られ、しばし活動の規模を縮小する。しかし、アメリカにおけるHR/HMの人気を背景に「Atlantic」との契約を獲得、彼らの作品としては比較的キャッチーな「FIGHTING THE WORLD」(1987)、名曲「Hail And Kill」を収録したバンドの代表作であり、彼らの自負をタイトル化した名盤「KINGS OF METAL」(1988)をリリース。同作収録のバラード「Heart Of Steel」のドイツ語ヴァージョンを制作したことがきっかけで、元々支持の高かったドイツでの彼らの注目度がさらに増すことになった。92年「THE TRIUMPH OF STEEL」をリリース。アルバム制作直前、息子が難病にかかったスコット・コロンバス(Dr)が看病のためにバンドを離れることになり、後任のライノに己のドラム・キットを譲り、それに感激したライノが、自らのドラム・キットに火を放ち、「俺に過去はない。MANOWARのメンバーとしての未来があるだけだ!」と言い放ったというドラマティックなエピソードを持つ同作をもって、初の来日公演も実現する。また、この頃、バンドはライヴにおける大音量の限界に挑み、見事ギネス・ブックに載る大音量ライヴを実現する。その後、アメリカにおけるHR/HMの人気が低下した煽りを受け、「Atlantic」からドロップするも、未だHR/HMの可能性を信じていたA&Rマン、ジョン・カロドナーの手によって「Geffin」との契約を獲得し、96年、「LOUDER THAN HELL」をリリース。既に一般音楽リスナーの間でさえ「メタルといえばMETALLICAとMANOWAR」というほどの認知を獲得していた欧州では当然の如く大ヒット、それまでやや彼らの過剰な大仰さを色物として見る向きが多かったここ日本でも、今や数少ない正統派メタルの大物、という評価を固めた。その後、彼らは支持拠点であるドイツの大手メタル・レーベル「Nuclear Blast」に移籍し、2枚のライヴ・アルバムをリリース。21世紀に入ってもその信念は全く揺らぐことなく、あくなきメタル道の追求を続けている。 |
MEGADETH METALLICAをクビになったギタリストのデイヴ・ムステイン(Vo/G)が、デイヴ・エレフソン(B)と共に結成。84年デビュー。NWOBHMをベースとしたスラッシュ・メタルをベースに、ジャズ/フュージョンに由来するテクニカルな複雑さを持ち込んだ「インテレクチュアル(知的)・スラッシュ」サウンドで注目を集める。デイヴ・ムステインの刺々しく自滅的なパーソナリティを表した、そのヒリヒリするような焦燥感と緊張感に満ちたサウンドで熱狂的なファンを獲得していたが、元CACOPHONYのテクニカル・ギタリスト、マーティ・フリードマンが加入して発表された「RUST IN PEACE」(1990)以降、よりストレートで、バンドらしいサウンドを聴かせるようになり、92年の「COUNTDOWN TO EXTINCTION(邦題:破滅へのカウントダウン)」は全米初登場2位を記録する大ヒットとなる。以降、次第に歌を重視するアプローチをとりつつ、HR/HMが壊滅状態となっていたアメリカで一人気を吐いていたが、2002年、デイヴ・ムステインの身体の不調を理由に、突如解散。2004年に再結成されたときには、コア・メンバーと目されていたデイヴ・エレフソンの姿すらない、完全なムステインのソロ・プロジェクトと化していた。 |
METALLICA 81年、NWOBHMのマニアであったラーズ・ウルリッヒ(Dr)とジェイムズ・ヘッドフィールド(Vo/G)を中心に結成。バンド名は「メタル」と「アメリカ」のミックス。初期のメンバーには後にMEGADETHで有名になるデイヴ・ムステインもギタリストとして名を連ねていたが、レコード・デビュー前にドラッグおよび人間関係の問題で解雇される。デイヴ・ムステインの後任としてEXODUSのカーク・ハメット、ベーシストにTRAUMAのクリフ・バートンを迎え、83年にアルバム「KILL EM' ALL(当時の邦題:血染めの鉄槌)」でデビュー。彼らのルーツであるNWOBHMサウンドをベースに、より過激で攻撃的な、後に「スラッシュ・メタル」として確立されるサウンドを聴かせたこの作品は保守的なプレスやリスナーから「こんなもん音楽じゃない」「ただの騒音」などと酷評されるも、刺激に飢えたキッズたちの支持を集めることに成功。アコースティック・ギターの導入や、初のバラードなどにも挑戦したセカンド・アルバム「RIDE THE LIGHTNING」はヨーロッパのメタル・ファンを発端にジワジワとヒット、彼らに大手メジャー「ELEKTRA」との契約をもたらす。メジャーからリリースされる初のスラッシュ・アルバムとなった3作目「MASTER OF PUPPETS(邦題:メタル・マスター)」はなんとビルボード最高位29位というヒットを記録、当時天地がひっくり返ったかのような衝撃をシーンに与え、次々とスラッシュ・メタル・バンドがメジャー・デビューを飾るきっかけとなる。同作に伴うツアーの最中、ツアー・バスの事故によってベーシストのクリフ・バートンが死亡するという悲劇に襲われるも、後任にFLOTSAM AND JETSAMのジェイソン・ニューステッドを迎え、この悲劇を乗り越える。4作目となる「…AND JASTIS FOR ALL(邦題:メタル・ジャスティス)」は、映画「ジョニーは戦場に行った」の映像をフィーチュアしたバンド初のビデオ・クリップ「One」が評判を呼んだことも手伝い、全米6位の大ヒットを記録。90年台に入り、ALICE IN CHAINSなど、新しいジェネレーションのバンドの影響を受けて制作され、新しいヘヴィネスを提示した「METALLICA」、通称「ブラック・アルバム」は遂に全米ナンバーワンを記録。90年代を通じて最も売れたロック・アルバムの一枚となり、メタル界のカリスマにとどまらず、ロック界のアイコンとしての地位を確立する。そうした状況が影響したのか、その後リリースしたアルバム「LOAD」、およびその姉妹作というべき「RELOAD」はメタルにとどまらない幅広い音楽性を提示、髪を切るなどルックス面の変化や、「メタルは窮屈」「最近のバンドではOASISが気に入っている」等の発言もあり、コアなメタル・ファンの物議を醸すことになる。しかしアルバム自体はそれぞれ大ヒット、「メタル」が時代遅れなものとしてシーンから排除されていったアメリカの音楽シーンにおいて、唯一のメタル(と認識される)・バンドとして孤高の地位を保ち続けた。 |
MOTLEY CRUE 元LONDONのニッキー・シックス(B)、トミー・リー(Dr)を中心に、雑誌のメンバー募集に応じてきたミック・マーズ(G)を加え、さらにROCK CANDYで活動していたヴィンス・ニール(Vo)を引き抜いて81年にLA.で結成。同年5月にシングル「Stick To Your Guns」を、12月にアルバム「TOO FAST FOR LOVE(邦題:華麗なる激情)」を自らのレーベル「LETHAR RECORDS」から発表、自主制作盤としては驚異的なセールスを記録する。グラマラスなメイクでアグレッシヴなステージを繰り広げる彼らはたちまち「噂のバンド」になり、メジャーの「ELEKTRA」との契約に成功。83年、HM色を強めた「SHOUT AT THE DEVIL」を発表、折からのアメリカにおけるメタル・ブームの追い風も受け、LAメタル・ムーヴメントの中心的存在としての地位を手に入れる。以後、バッド・ボーイズR&R色を強めつつ、「THEATER OF PAIN」(1985)、「GIRLS GIRLS GIRLS」(1987)とヒットを重ねる。パイロや女性コーラス、空中を回転するドラムキットなどを駆使したド派手なステージや、暴力沙汰やドラッグの問題などのスキャンダラスな話題も、バンドのカリスマ性を高める方向に働き、89年の「DR.FEELGOOD」はついに全米No.1を獲得。アルバムごとに音楽性、ヴィジュアル・イメージ、そしてロゴまでも変更し、常に時代の半歩先を進んできたニッキー・シックスの戦略による成功が、まさに頂点を迎えた瞬間だった。90年代に入り、彼らのような華やかさに溢れたバンドが時代遅れとされるようになると、バンドのイメージを変えるために92年、元々人間関係上の問題を抱えていたフロントマンのヴィンス・ニールを解雇、元SCREAMのジョン・コラビを迎え、ヘヴィな音楽性の「MOTLEY CRUE」を発表。しかし、これがニッキーの最初の誤算となる。従来の彼らのイメージを捨てきれないファンたちは、かつての華やかさを失った新しいサウンドにそっぽを向き、また、新しい世代のファンの開拓にも失敗してしまったのだ。結局レコード会社の圧力もあり、97年にヴィンス・ニールが復帰する。しかし、アルバムは以前のような大ヒットには至らず、その上ヒップ・ホップやクラブサウンド、ニュー・メタルなどの「新しい音楽」に傾倒したトミー・リーが脱退。かつての勢いを取り戻すことはなかった。 |
MOTORHEAD 英国の伝説的サイケデリック・バンドであるHAWKWINDをクビになったレミー・キルミスター(Vo/B)を中心に75年結成。レミー、フィルシー・"アニマル"・テイラー(Dr)、"ファスト"・エディ・クラーク(G)の黄金トリオが揃った77年、「MOTORHEAD」でデビュー、「OVERKILL」、「BOMBER」(1979)、「ACE OF SPADES」(1980)といった充実作を発表。そのHM的な攻撃性と、パンク的な荒々しいストリート感覚を兼ね備えた過激なサウンドによって、メタルファンとパンクス両サイドから支持を獲得、後のスラッシュ・メタルに与えた影響は計り知れない。当時「ノイズ以外の何物でもない」とまで言われたサウンドながら、当時のバンドの勢いを見事にパッケージした81年のライヴ・アルバム「NO SLEEP 'TIL HAMMERSMITH(当時の邦題:極悪ライヴ)」は、なんと全英チャートで1位を獲得するヒットとなった。82年の「IRON FIST」に伴うツアーの最中にエディ・クラークが脱退、後任に元THIN LIZZYのブライアン・ロバートソンを迎えるが、彼の弾く泣きのギターは、攻撃的なサウンドを求めるMOTORHEADのファンには不評で、バンドの人気は低下する。その後もメンバー・チェンジを繰り返しつつ、90年代以降は活動の拠点をアメリカに移し、マイペースで活動を続けている。 |
MR.BIG 元TALAS〜デヴィッド・リー・ロスのバック・バンドで、VAN HALENにも加入しかけた過去のある超絶テクニカル・ベーシスト、ビリー・シーンを中心に、元RACER Xのポール・ギルバート(G)、IMPELLITERIなどにも参加経験のあったパット・トーピー(Dr)、そしてビリーと同じくVAN HALENのメンバー候補だったこともあるエリック・マーティンによって88年に結成。ビリー、ポールという、実績のある卓越したテクニックの持ち主が在籍していたことからデビュー前から注目を集め、翌89年に発表されたアルバム「MR.BIG」は本国アメリカより日本で高い評価を得た。91年に発表した名盤「LEAN INTO IT」はその充実した楽曲によって楽器に興味のない層にもアピールし、さらに支持を広げることに成功。本国アメリカでも、アコースティック・ソングの「To Be With You」が全米ナンバーワンに輝く大ヒットを記録した。その後の「BUMP AHEAD」、「HEY MAN」でも良質なメロディック・ハード・ロックを聴かせ、日本では大ヒットを記録するが、アメリカでは苦戦し、「ビッグ・イン・ジャパン」の代表格として語られるようになってしまう。そんな状況に閉塞感を覚えたか、96年にベスト・アルバムを発表すると、バンドは活動停止、メンバーは各自ソロ活動を開始する。メンバーの不仲も囁かれ、その後の動向が注目される中、結局ソロに専念したいとの理由で98年にポールが脱退、リッチー・コッツェンが加入した。その新ラインナップで2枚のアルバムを制作した後、2002年に解散している。 |
M.S.G その名の通り、元SCORPIONS〜UFOのギタリスト、マイケル・シェンカーのソロ・プロジェクト。精神的ストレスを受け続けた日々と過酷なツアー、そしてそれからの逃避として溺れたアルコールやドラッグによって、UFO脱退時には廃人寸前に追い込まれていた彼が、故郷ハノーファーでの数ヶ月の入院・治療生活を経て、80年4月、自身の名前を冠したこのプロジェクトで復活を遂げた。同年リリースされた、名曲「Armed And Ready」、不滅のギター・インスト・アンセム「Into The Arena」等を収録したファースト・アルバム「THE MICHALE SCHENKER GROUP(邦題:神)」は、UFO時代から絶賛されていたマイケルの泣きに満ちたスリリングなギター・プレイの魅力が存分に発揮された名盤で、彼は日本のファンから「神」と呼ばれるほどの圧倒的な支持を獲得することに成功する。ソロ・プロジェクトではなく、「バンド」として発表されたセカンド・アルバム「M.S.G.(邦題:神話)」以降、共に元RAINBOWのコージー・パウエルや、グラハム・ボネットを迎えるなど、メンバー・チェンジを繰り返しつつ、作を重ねる。しかし、マイケルの精神的な不安定さゆえに一時バンドは崩壊。3年の空白を経た後、マイケルは「運命のパートナー」と見込んだヴォーカリスト、ロビン・マッコーリーと共に「マッコーリー・シェンカー・グループ」の名のもとに復活した。92年、3枚の作品を残したロビンとのコラボレート解消後は、UFOへの再参加を経て、再び「マイケル・シェンカー・グループ」としてのM.S.G.の活動を開始する。 |
NAPALM DEATH 80年頃、ハードコア・パンク・バンドとしてイギリスの工業都市バーミンガムにて結成。メンバーが流動的で、デビュー音源となるEP「SCUM」がリリースされたのは87年になってからで、このEPですらA面とB面では録音したメンバーが異なる、という状況だった。このEPと、翌年に発表されたフル・アルバム「FROM ENSLAVEMENT TO OBLITERATION」によってハードコアを超えた(より速く、より短く、より過激な)「グラインド・コア」というスタイルを確立、シーンに巨大なインパクトと後続に多大な影響を与えた。90年代以降、フロリダのデス・メタル・サウンドの影響を受け、デス・メタル色を強める。92年、バンドの中心人物だったミック・ハリス(Dr)の脱退によってオリジナル・メンバーが一人もいなくなる、という事態が発生するも、シェーン・エンバリー(B)を中心に、以前ほどの衝撃は望むべくもないが、質の高い作品を送り出し続けている。CATHDRALのリー・ドリアン、CARCASSのビル・スティアーなど、初期デス・メタル・シーンの重要人物を送り出したバンドとしても有名。 |
NIGHT RANGER 元RUBICONのジャック・ブレイズ(B/Vo)、ブラッド・ギルス(G)を中心に、ケリー・ケイギー(Dr/Vo)、ジェフ・ワトソン(G)、アラン・フィッツジェラルド(Key)が加わり、82年、「DAWN PATROL」でデビュー。アメリカでもスマッシュ・ヒットするが、それ以上に日本では高い評価を受け、当時人気絶頂だったシブがき隊が同アルバム収録の名曲「Don't Tell Me You Love Me」そっくりの「Zokkon命」を発表して当時のHR/HMファンの怒りを買うというエピソードさえ生まれた。セカンド・アルバム「MIDNIGHT MADNESS」(1983)収録のバラード「Sister Christian」が全米5位の大ヒットを記録してしまったため、以後はレコード会社からバラードを多く書くことを要求されるようになり、バラード・バンド的な評価が定着してしまう。本来はアーミングの達人、ブラッド・ギルスと、8フィンガー奏法のテクニシャン、ジェフ・ワトソンの2人のギター・ヒーローを擁した強力なHRバンドだったにもかかわらず、その真価が認められず、次第にジリ貧状態に陥って解散に至る。彼らが人気を博した時期はLAメタルの台頭期と重なるが、彼らは派手なヴィジュアルとは無縁の、陽気なアメリカン・ボーイを地で行く庶民派のイメージで、独自の存在感を示していた。90年代に入り再結成するも、かつての勢いはない。 |
PANTERA 地元テキサスのギター・ヒーローだったダイアモンド・ダレル(G)と彼の兄ヴィニ−・ポール(Dr)、レックス(B)、テレンス・リー(Vo)によって結成。80年代はインディーズで、当時主流だったDEF LEPPARDあたりを思わせるキャッチーなHR/HMをプレイしていた。しかし、88年、ヴォーカルをフィル・アンセルモに替えた4作目「POWER METAL」で、アルバム・タイトル通りパワー・メタル色を一気に強め、続くメジャー・デビュー作となった90年の「COWBOYS FROM HELL」ではダイアモンド・ダレルのギター・サウンドが変化、そのザクザクしながらも重さと粘りを感じさせるヘヴィなサウンドで一気に注目を集める。次作「VALGAR DISPLAY OF POWER(邦題:俗悪)」(1992)によって、ハードコア的なアグレッションと、従来のヘヴィ・メタルやスラッシュ・メタルとは一線を画したヘヴィなグルーヴを持つ新感覚のブルータル・サウンドを完成させた。その結果、彼らのクローンのようなバンドが雨後のタケノコの如く出現したにとどまらず、それまでスラッシュ・メタルをプレイしていたバンドの多くがPANTERA化し、「モダン・ヘヴィネス」と呼ばれるサウンドのオリジネイターとして絶対的な評価を確立する。94年の「FAR BEYOND DRIVEN(邦題:脳殺)」はポピュラリティなどという言葉とは一切無縁の超ヘヴィ作でありながら、全米初登場ナンバーワンを獲得、以降HR/HMが「ダサいもの」とされた90年代のアメリカで、唯一クールなメタル・バンドとしてキッズの熱い支持を集め続けた。21世紀に入り、ドラッグ問題を抱えていたフィル・アンセルモと他のメンバーの関係が悪化、活動を停止する。 |
POISON 「LAメタル最後の大物」との触れ込みと共に86年にデビュー。その派手なグラム・ロック調のルックスと、チープかつキャッチーなR&Rサウンドでたちまち人気を得る。「Talk Dirty To Me」「Noting But A Good Time」、そして全米No.1に輝いたバラード「Every Rose Has It's Thorn」など、数多くのヒットと飛ばすも、演奏が下手だったこともあり、「カッコだけのポーザー・バンド」呼ばわりされることも多かった。90年代に入ると、リッチー・コッツェンやブルース・サラセーノ等の実力派ギタリストをメンバーに迎え、バンド・イメージの変化を模索したが、HR/HMのブームが去ったこともあり、失速した。しばらく活動を停止していたが、90年代末、ベスト・アルバム発表と共に全盛期のメンバーで全米を再結成ツアーしてみると、これが意外な好評を博したため、以後毎年のように懐メロ感覚のツアーを行なうようになった。 |
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